無情
以下の文は私のまとまりのない言葉がただ羅列されているだけであり、内容もどんよりしたものである。
私の主義・主張として、現実世界での生活で現代人は十分すぎるほど疲弊しているから、せめて趣味の世界では辛い話などせず楽しいことだけを考えるというものがある。
ところがこの記事は私の主義・主張に沿わないなどという次元ではない。
苦手な人は今すぐ回れ右をしてブラウザバックすること。
私は仕事や趣味で文章を書くわけではない。ましてや文章を読むこともあまりない。
すなわち、文才なんてこれっぽっちもないのだ。
それでも、このやり場のない感情を書き留めておこうと、そう思ったのだ。
ちなみにこの記事は3000字弱なのだが、たった3000字を書くのに5日もの時間を要している。正味5時間程度と言ったところだろう。シナリオライターはすごいね。5日もあれば多少気持ちの整理もついてしまう。
読者の皆様は死にどれだけ触れたことがあるだろうか。
現実のものでも良いし、虚構のものでも良い。
恥ずかしながら、私はあまり触れたことがない。
思い入れのあるものの死と言えば、猫の死くらいものだ。
頭の良いアメリカンショートヘアだった。彼は人に怯えることなく、だけどしっかりと猫らしく、それでいて寂しがり屋だった。
猫とは、大きな音が苦手な毛玉である。だからひとたび掃除機をかければ、どこへ行くあてがあるわけでもなく家中暴れ回り、最終的にはベッドの下で震えながら丸1日待つのだ。とっくに掃除機はかけ終わっているのに。なんなら君が散らかしたものの分だけ掃除の量が増えているんだよね。
そんな風になってしまうから、掃除機をかける前にガラスの棚に閉じ込めることにしたのだ。普通の猫なら閉じ込められたら棚の中でしこたま暴れるものである。もちろん彼も最初は爪で扉を引っ搔いていた。やがてちょこんと座り、諦めたように上目遣いで私を見つめていたのを良く覚えている。あと5分したら開けてやるからちょっと待ってろ。なあ、なんで開けたのにまだ座ってるんだ。
彼の家主がしばらく空けるからということで世話を頼まれたこともあった。
私にもやることがあったから1日1時間程度しか面倒を見ることはできなかったが。
やはり寂しがり屋というのは本当で、私が彼の家の扉を開ければ必ず扉の前で待っていた。家主の足音くらい聞き分けられるはずなのに、である。
私は最低限の世話をしたあと、黙ってMGS4のEX引継ぎなしBIG BOSSプレイをした。なぜ太陽銃引継ぎをしなかったのかと頭を抱えながら、最難関のバイク戦はドラム缶の位置を全部覚えてオペレーターで撃ち抜いたのを覚えている。小休止を入れようと画面から視線を落とすと、彼もまた黙って私の隣に座り同じ画面を眺めていた。その姿は猫というよりはむしろ人間というべきだったろう。
そういえば徹夜でwii fitをやって疲れ切って寝たとき、頭部に妙な感触がして起きたこともあった。目を開けてみると、逆さまになった猫の顔があるではないか。まさにド迫力と言ったところである。どうやら猫の髭の直撃で起こされてしまったようだ。恐らく起きるまでに大分時間がかかったはずだから、顔中舐め回されていたことだろう。こいつ本当に生きているのか?という心配の眼差しで匂いを嗅ぎ、動けばなんだ脅かしやがってとでも言いたげな鳴き声を上げる。「トッ、トッ、トッ、トッ」とおよそ獣が鳴らすべきではない足音を立ててデブ猫は歩く。お前は本当に狩りをする動物なのか?来たばかりの頃はシュッとしてたのに……今や腹がフローリングに付いているではないか。もはや獣というよりモップである。
時計を見れば丁度午前10時だ。
「飯を出せ」
分かってる。
別れも突然のものである。腎臓病だった。
長々と書いたが自身の愛猫ではない。程度で言えば軽いものだろう。
その私が今回、目の当たりにしたのは、そう、人の死である。
人が1人死んだ。いや、正確には死んだかどうかすら分からない。最早知ることすら許されない。
顔も声も知らない。素性も知らない。だが友人と呼べる程度の仲の人間だ。
分かっているのは性別と年齢と、指定難病に罹っているということくらいだ。
私自身のおさらいのためにも書いておこう。彼女と初めて知り合ったのは、白猫プロジェクトの破滅級周回のはずだ。ともすれば知り合ったのは2016年12月に遡る。6年以上も付き合いがあるとは、時の流れも早いものである。
当時の周回DM部屋の会話を眺めると、お互い敬語を使っていたのだからお笑い種である。ここ3,4年は私の発言の揚げ足を可能な限り取り、可能な限り罵詈雑言を浴びせてくるのだ。並大抵の人間ならぶちギレてブロックしていたであろう。しかしなんだかんだ毎回イベントの周回を一緒に周り、5年程度とまあ長いこと助けられたものだ。感謝はしているとも。あれだけの暴言を平然と放つ癖に、兄妹や両親相手にかなり尽くしていたのも印象的だ。そういうこともできるのに、なぜ私の扱いだけ酷かったのか。まあいいけど。
私の勘違いでなければ、散々な言われようでありながらそれなりに信用はされていたように思う。タイムラインでの面倒事の相談を受けたこともあった。人の繋がりの都合上、人選として私が最適というのはもちろんあったのだが、最低限認められていたというところか。本人に言ったら絶対否定されるけど。それに面と向かって「頭おかしい」「変態」「人外」などという言葉を本当に嫌いな人に投げることができるだろうか。好きの裏返しかと変な勘繰りを入れてしまう程度だ。
私の記憶に間違いがなければ、当初は鍵垢ではなくてどこかで鍵垢を作り、本垢(?)を消していた。その時からIDに自分の年齢を入れていたのだから、当初は生きた証として残しておくつもりがあったのではないかと思う。誕生日を迎えるごとに数字が1つ増えていくのを眺めていたものだ。
彼女はこう言っていた。「終活はもう終わった」と。アカウントを消したのもその一環だろう。気付けばあらゆるゲームのフレンドが切られていた。徹底している。抜かりがない。
そして彼女はツイッターのアカウントを消した。生きていた証を消したのだ。
彼女の考えは分からないが、そろそろ終わるものにいつまでも付き合ってほしくはなかったというところだろうか。彼女が終わりだと言ったから、ここでもう終わりなのである。
ありがとう。そしてさようなら。
願わくは、また会う日まで。
しかし、こうも思うのである。できることが1つずつ無くなっていく中、最後に人がすることはなんだろうか。おそらく「見る」ことである。
どこかで観賞用のアカウントを作って最期の時まで見ているのではないだろうか。娯楽として私の言動を眺めるのは、退屈を楽しむのに十分役立つはずだ。
もし彼女がこの記事を読んでいたなら、きっとこう言うだろう。
「あなた、頭大丈夫?」とね。